このニューズレターは著者デーヴィッド・アイクの承認を得て翻訳されたものであり、著作権は著者に帰属します。英語原文に興味がある方は、David Ickeのサイトから購読できます。
デーヴィッド・アイク、ニューズレター 2008年11月09日号
インドの奥地で (続編)
的外れな複雑さ …
… そして単純な真実
みなさん、こんにちは…
私は以前こんな譬えを使った。毛糸玉をすべてほどこうとする目的で、50匹の子猫を部屋に入れ50個の毛糸玉を与えて、何時間後かに戻って来る、というものだ。これは「システム」が人のマインドをどのように奴隷にするかという事に当てはめたのだが、インド諸宗教の信念にも同じように当てはまる。
どうやら5万ものヒンズー教の神々が存在しており、立派な規模のサッカー場を満杯にできる程の、全く手に負えない数だ。これによって、親同士が決めた婚姻や、属する「カースト」(生まれで決まる階級)より下の相手と結婚しようとする若者を殺害したりと極端な事件まで起きてくる。
日常生活においてすら、象徴を文字通り解釈することや、複雑さや神話が、多くの人々の生命を蝕み、クモの巣にかかったハエのようにするのである。「シヴァ神がこう言っている」、「ヴィシュヌ神がああ言っている」、これができるのは「r」のつく月だけだ、自分のサドゥー(出家の托鉢行者)がデリーの方角を指している時だけだ、などである。
彼らがこういったものすべてにどうやってついていくのか、私には全くわからない。もちろん、どの宗教でも事情は同じだ。これをしなければならい、あれはしてはいけない。イエスがこう言っている、アラーがこう言っている、ヤハウェイは別の事を言っているなどだ。しかし神を気にかける度合いが、どんな規範と比べても、インドでは信じがたい。
たいていの宗教には主たる存在理由がある。我々は一つの永遠の意識であるという単純な真理、自分は体であると思い込んでいるが、体が自分なのではないという真実を隠すためだ。宗教は「魂」や死後の生やなどのあらゆる事にまで言及するかもしれない。しかしそのやり方において、宗教はマインド(幻想)と体の創造物であり、『無限の意識』ではない。
他の宗教と比較すれば、ヒンズー教が「すべてと一つであること」についてより多くを語っている宗教だとしても、この宗教には信者をこの真理の核心から遠ざけるために、最も高度に創られた複雑さが必要なのである。 5万の神々は、その複雑さ故に価値がある。そういうことらしい。
インドに沢山ある寺院やグルのアシュラム、しかしこれが大衆に
精神的/霊的覚醒をもたらすのだろうか?私にはそうは見えない。
単純な真理がどのように乗っ取られてしまうのか、その根深い事例の最たるものは先週私が取り上げたシュリ・ラマナ・マハリシの場合以外にはあるまい。彼は、今私がこれを書いている場所、南インド、タミル・ナードゥ州ティルバンナーマライの町のとなりにあるアルナーチャラ山で暮らしていた。
ラマナ・マハリシは13歳の時、「私」の意味について深く黙考を始めた。「私は誰か?」我々が話題にしている、この「私」の本質は何か?彼は生涯にわたる深い瞑想(すべての人に必要だとは私は思わないが、それが彼のやり方だった)の中で、「私」とは一つの無限で、永遠で不変の意識であり、「物質的」世界は我々がマインドと呼ぶものの幻想であると結論づけたのである。
彼の結論は基本的にそれだけだ。彼はいわゆるマスター(師)と弟子の違いは視点や観点の違いに過ぎないと理解し、「上の」お方と、「こちら」側にいる下々ではないとした。彼の言う事にすべて賛成する訳でも、信じる訳でもないが、その核心には単純な真理がある。我々はみな一つの意識であり、人々が疎外感と分離感で迷子になっている「物質的」領域の現実は幻だということだ。
しかし、ああ神様(この場合シヴァ神だが)、こんな単純な真理がどうなってしまったというのか?彼が亡くなった1950年以降、この場所は彼の神殿に変えられてしまった。私は信者たちが彼の像の前で五体投地し、地面の上の彼らの顔には尊敬と畏れがあるのを見てあっけにとられていた。
「違う、違う」、私は叫びたくなる、「君たちは彼の一番重要な点を見落としている。さっさと起き上がるんだ。」と。
私がラマナ・マハリシのメイン・アシュラムの建物に着いたのは夜の集いの時だった。ラマナ・マハリシはヒンズー教に直接関係していなかったのかもしれない。しかし何であれ、ヒンズー教は彼を取り込み、彼のメッセージを吸収し設計図に適合させたのである。
地元や世界から来たラマナ・マハリシの信者たちがホールに集って座っていたが、誰かが本の一節を読むと集まった人々がそれを一緒に繰り返すという形で儀式が行われた。それがキリスト教のミサやイスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教(構造とテーマが基本的に同じ)のものだったとしても何の不思議もない。
マハリシはこの世がマインド(幻想)の虚構であり、我々はみな『一つにして全体』であると述べた。そういう人物の名において行われる宗教的儀式という皮肉。それを理解するのは私一人だけだったのだろうか?どうもそうらしい。
私は世界中で、インド風の服装で短く刈りこんだ髪型の西欧の白人が、宗教指導者の言いなりになるのを目撃した。彼らは自分たちが憧れる「聖者」をまねて同じお定まりの服とヘアスタイルにしていたのだ。
私はスコットランド出身のかわいい顔をした男に短い時間会ったが、「聖者」風クルーカットとヒンズー教徒の袈裟のような着衣という恰好であった。この姿からスコットランド訛りが聞こえるのはシュールなものだった。彼は「西欧が発見した東アジア」教の信者の人々と同じように、一歩一歩ゆっくりと注意深く歩いた。それはまるで床に透明の綱渡りのロープがあって、その上を渡っているようだった。
これは宗教的「悟り」ではない。コンピュータ・プログラムなのだ。 私はこのような人々を攻撃したり、嘲笑しようとしているのではない。彼らは好きな服を着て、好きなルックスになればいい。彼らのすることは彼らの問題だし、全員が私のように、ダブダブのパンツにTシャツという恰好だったら、それはウンザリする光景だろう。 私が言いたいのは正確には、体や頭髪をどのように装うかは重要な事ではないということだ。悟りはファッション哲学ではない。 『存在』の状態なのだ。
人に見られる仮面(ペルソナ)が必要だと考える人々には、非常に深遠な何かが欠落している。彼らは、「内側に」向かっていると信じながら、依然として「外側の」現実に気をとられている。彼らは自分では無限の意識にアクセスしていると思っているが、それはすべて、イメージと「事物」でできた彼らの有限のマインドの中で起きているに過ぎない。 人に見られる仮面(ペルソナ)を演じるのはマインドである。無限の意識には関係ない。マインドは『思考し』、「仮面(ペルソナ)」は思考の表現なのである。『無限の存在』はたしかに『存在し』見当違いのガラクタを見れば、そう識別できるのである。
ここではどこに行っても「敬意を表して」しょっちゅう靴を脱いでいるようだ。だが一体何に敬意を表しているのだろう?この行為はただの見せかけだ。尊敬の念は『心(ハート)』から生まれる。履物からではない。
私は先日、土埃で汚れた駐車場を横切り、屋外通路を抜けて山道に行こうとしたら、靴を脱ぐよう言われた。どの建物にも入ってもいないのにだ。しかしその土埃で汚れた駐車場と、屋外通路は『神聖』なものらしい。なんと頭が麻痺しそうなバカな話だろう。 それは私の事だって??多分そうだろう。
ラマナ・マハリシの「寺院風」モニュメント。彼の言葉を全然理解しない人々が建造した。
もしこれがただの彫像でなく、本物のラマナ・マハリシだったら、彼が目の前にあるものをどうするか、私には想像できる。もし誰かが私の寺院やモニュメントを建てるほど無知で見当違いだったら?私が許可する。爆弾で吹き飛ばせ。その爆破音は私の大喝采によってかき消されるであろう。
宗教の構造は幻想(マインド)によってつくられる。『無限の意識』の心(ハート)によってではない。そしてお定まりの着衣をまとった、ほとんどの歯車のような人々は、当然このことを反映するのである。ここに来た最初の日に苦労してアルナーチャラ山に登った。その時オレンジ色のお定まりの袈裟のような着衣を着た男が小さな建物、正確には洞窟だが、の中でマントラを唱えながら瞑想していた。その場所はかつてラマナ・マハリシが1915年から1922年の間、住まいとしていた場所だった。
そのマントラは多分、愛についてとか、いかに神がすべての人や、あれこれを愛しているかについてのものだったのだろう。それはどうでもいい。その男は修行を終えると外に出てあたりを走り回る野生の山猿を探しに行った。サルたちは害のあることなどしていないが、その男はパチンコを引っ張り出し、石を発射する準備を始めたのである。
私は、彼がこの「我々はみな『一つにして全体』」というお遊びをよく理解しているとは思わない。しかしもちろん宗教を問わず、ほとんどの人はそうだ。もしマインドと、ハートではないものがこれに関わっているとしたら、彼らに理解できるだろうか?宗教は『すること(マインド)』であり『在ること(無限の意識)』ではないのである。
「聖者」の天罰が下されたサルの一匹。
私はある日、ラマナ・マハリシのアシュラムの建物の外に座っていた。ランチタイムが終わりアシュラムが開くのを待っていたのだ。そう、生涯にわたり時間のない世界と静寂の世界で瞑想した男とに捧げられたモニュメントは今や、時間割で運営されているのである。壁には大きな時計があり、異様に思えた。瞑想用の部屋にすら時計があり、ラマナ・マハリシがかつて座っていた(だと思うが)家具の上には彼の肖像画があったが、部屋は、それがよく見えるように設計されていた。肖像が西欧の教会にある「イエス」であっても不思議はなかった。
静かな時間のない感覚といえば、最初にラマナ・マハリシのアシュラムを訪れた時、大きな時計といつまでも続くひどい騒音に出会った。私は近くにいて足を組んでいたご婦人に無時間と静寂を探しにここに来たのだと告げた。私は来るべき方向と逆の方に来てしまったのだろうか?そう言って、二人でこのひどい皮肉を笑った。
私は「神殿」の区画を歩いて横切り、あの騒音が何なのか、そしていつ止むのかときいた。それは「神殿」を清掃する水撒きのホースに水を送るポンプの音で、「12:30」に止まるだろうと言われた。まだ2時間近く先の話だった。毎日その場所を洗うため、真昼間に聴覚を直撃する耳障りな騒音が2時間も続く。とんでもない話だ。私なら即効でそのスケジュールを変えるよう話すだろう。
しかしこの場所を運営している人々の中に「聖なる」人々はいないことがわかった。彼らは、ラマナ・マハリシが理解させようとしたことを「体得した」人々というよりは、役所の職員か管理人のような人々だった。それは仕事であり、存在に関わることではなかったのだ。
(騒音のひどい)ラマナ・マハリシ講堂。
インドの公式の「精神性/霊性」についての私の全体的な印象は、あの日に固まったのだと思う。大きな時計の針が2時になり、スタッフが鍵をもって戻ってくるのを待っていた日だ。外ではアメリカの白人の「グル」が(当然)オレンジ色の袈裟のような着衣に(当然)剃髪した頭で足を組んで座っていた。
彼は二人のアメリカ人女性に、悟りへの道について講釈していた。一人は一言一句をあからさまな畏怖の表情で受け取り、もう一人は勉強熱心に、重要だと思ったすべての言葉を小さなノートに記録していた。
彼が言った事はすべてひどく複雑に思えた。そして彼が、我々は「神」になるに値しないと言った時、私は椅子を畳んでたっぷりと深く息を吸うため、その場を離れた。少なくとも、ノートを取っていた女性は当然の質問をした。「私たちが『神だ』っておっしゃるなら、我々は神になる価値がないっていうのはどういうことですか?」
彼のクネクネ続く長い答えが終わる頃には、ありがたいことに彼の声が聞こえないところにいたが、「イエス」の名前が1、2回出てきた事には気がついた。あれはオレンジ色の服で変装したキリスト教であり、ユダヤ教であり、イスラム教だったのだ。
もう一度言おう。単純な真理は、的外れな複雑さや、神は「上に」あり我々は「下に」あるなどの作られた宗教的階級などの中で溺れていたのである。
(ティルバンナーマライの偉大な奇跡)
ワオ!奇跡だ!私にはベロンベロンに酔っぱらったように見えるが。
じゃあ私のインドの旅は失望だったろうって?いいえ全然。そうでなければインドが恋しいなどとは一瞬でも思わなかっただろう。私はアルナーチャラのエネルギーが大好きだ。そしてこの国にはきっと、ヴェールがより薄く、それゆえエネルギーとより明白につながれる場所があちこちあると思う。また人々の人生の旅を手助けできるほど覚醒した本物の「グル」や「聖人や聖女」も何人かいるだろう。
彼らや、こうしたエネルギーは二つとも、しばしば隠されている。虚飾に満ちた利己的で誤ったデタラメが、「精神性/霊性」や「悟り」として立派に通っているが、これらの広汎な広がりの下に隠されているのである。このような条件下では、彼らや、そうしたエネルギーを「見つけること」は曲芸のように困難なものだ。「ニューエイジ」は「精神性/霊性」や「悟り」として立派に通っている。しかし「ニューエイジ」として「西欧」に現れたこの「東アジア」的なものの程度を見れば、どうしてそれが虚飾に満ちた利己的で誤ったデタラメな波動に満ちているのかわかるのである。
インドでは素晴らしい時をすごした。しかし皮肉にも神殿や寺院やアシュラムなどはそうではなかった。何度か訪れたラマナ・マハリシの建物は別にして、そうした所はすべて遠慮した。
じゃあ、大部分の時間どこにいたのかって?実はスパルサ・ホテルの106号室だ。チェンナイからここまで車で3時間かかったが、その間はインドのこの地方の動植物が見られる素晴らしい旅だった。また見られるのでチェンナイへの復路をも楽しみにしている。私は初めての場所を見るのが大好きなのだ。
町にも少し行ったし、ラマナ・マハリシのアシュラムに少し行った話しはすでにした。散歩も2、3度した。でもあとの残りは?スパルサ・ホテル106号室だ。
私の「寺院」、「神殿」、「アシュラム」へ、ようこそ…
アルナーチャラ山の上では非常にエネルギーを感じたが、他の場所はどこも普通だった。ラマナ・マハリシの公式スポットにも何も感じなかったし町のどの場所も同じだった。ただしこの山の向かいに建つこのホテル(訳注*1)の中は別だ。外壁はエネルギー的にとてもパワフルなゴツゴツした花崗岩でできている。ソルトレイクシティのフリーメーソンが操るモルモン教の寺院がこの石でできているのはそのためだ。(訳注*1:このホテルはティルバンナーマライの市街地にある。各部屋は独立した平屋の一戸建てになっている。) アルナーチャラのエネルギーの渦を通るエネルギー経絡のラインが、この場所をまっすぐに通っている事を発見したとしても、私は全く驚かないであろう。それはどうでもいいが、ご覧の椅子に座ってこれを書いているこの部屋で、私はものすごくパワフルな体験をいくつかした。それは昼夜を問わず一日中、昏睡状態のような「睡眠」に出入りするというものだった。
過去6日間、私は一人でいたが、昨夜6日もほとんど話をしていない事に気づいた。私が喋る言葉といえば1日に2度食事を注文する時(ほとんど指差すだけで事足りたが)発するもの、そしてここで働く愛らしい人々に「ありがとう」と言うくらいだ。
あちこちで時々話した他は、全く話していない。この部屋でほとんど毎日、1日約22時間過ごしたが確かににそうだ。ここに来る途中から時計が止ったままだったので時間の感覚もなく、意識的にそうしなくても、いわゆる「内に向かう」完全な状況が整ったのだ。
そして私は深い体験をしたー洞察が日増しに鮮明になり、毎日洪水のように押し寄せていた。私には大量の情報をダウンロードしている感覚だ。それはある時点で目覚めた意識に滲み出してくることになっているのだ。
この静かな部屋に一人でいる体験全体はジョン・レノンの歌の詞、「ここに座って輪がグルグル回るのを眺めている」を思い出させた。だけど退屈じゃなかったかって?いや、それは「絶対にない」。
アルナーチャラ山。前景にあるのは私のホテル。
時にはあまりにパワフルだったので、正気づくのにコーヒーを2,3杯飲んだほどだ。舞い上がったようなボーッとした感じの事を言っているのであり、身近にあるドラッグの事ではない。この場所を特別なものにしているのは「エネルギー」であり、信者や旅行者が集まる町で見かけた、創られた複雑さの中では失われてしまう。
忘れないようにしよう。ラマナ・マハリシ自身が言ったように、彼をこの地に住まわせ、人生の大半を過させたのは、アルナーチャラの「エネルギー」だったのだ。もしあまりに個人の物語に矮小化したり、彼のように様々な洞察力に富んだ人物のあれこれに囚われれば、我々はこの単純な事実を見落としうるのだ。
私はここでとても素晴らしい体験をした。それは「精神的/霊的」体験と呼ばれるかもしれない。そしてまだ私はこの部屋にいる。見てお分かりのように、ここには神殿も、寺院もアシュラムも、オレンジ色の袈裟のような着衣もない。
我々はエネルギーである。だからこそ我々は意識的、無意識的に他の形のエネルギーとつながる事ができるのだ。これは難解な理屈ではなく、ただ平穏で静寂であることで可能なのだ。そうある事で、雑音や喧騒や「現代世界」の複雑さが締め出しているものを、「聞く」事や感じる事ができるのである。誰かが後ろで叫んでいる時に理路整然とした会話ができるかどうか、試してみてほしい。これと同じ原理だ。
どうやってこれをするのか書いたルールブックの類も必要ない。「神にエネルギーを合わせるためには蓮華座で座らなければならない」といった類のものだ。いまいましい「ハウツー物」め。これだと、ひどい関節炎のせいで床に座れない私などは神とつながれないということだ?なんと、私がああいう人たちのように足を組めるとしたら麻酔を打ってやるしかない。
違うのは何か? 実はフィルターがなくなれば同じ
この種の身体力学や、「どうってやるか」の仕組みはすべて、まさに別の幻であり、すべての仕組みが発生するマインドの領域で働くのである。そしてマインドは『幻想の世界』なのだ。「体を調整する?」体など存在しない!! あるいは、我々に見えているような体は、ともかくも存在しないのだ。
自分の想像力がすでに「神」すなわち『無限のすべてなるもの』であるのに、同時にどうやって自分の想像の産物を「神」に合わせるのだろう?我々を最も効果的に『無限なるもの』の意識的気づきに合わせるのは、我々は『無限なるものである』という理解であり、蓮華座ではない。
もしマインドの影響を超えて、ついに本当に『無限の自己』に到達すれば、アルナーチャラ山、レイライン、ボーッとした状態でさえも、そしてホテルの部屋は言うまでなく、すべて幻想として見る事ができるのである。しかしこの話はまた別の機会に。
観点が我々の現実という感覚を決定する。それだけだ。現実という感覚が我々が経験する現実となるのである。
『無限の自己』意識の段階に到達するには、何年も、たとえ一生涯でも「世の中」から隠遁しなければならないと主張する人々がいるが、私はこれには反対だ。この手の話はよく耳にすると思う。この世の現実に生まれてきて、次に自分でそうしたという事実を無視してかかることになっているとは、私は思わない。20年近く前に読んだ本に、ニューエイジに傾倒する人々について、「彼らは着陸を拒否して空港上空で待機状態を続けている。」と書いてあったが、これと同じことだ。
『無限の自己』と意識的につながりを取り戻すこと。これが唯一のゴールではないことは確かである。そのつながりと気づきを使って、この現実という幻想の領域で、違いを作り出すのはどうだろうか?我々が探しているのは、バランスであり、架け橋となることではないのだろうか?幻想を超えて目覚めたという確かな証拠とは、幻想の「中」にいてそれと相互作用をしながらもなお、自分が本当は誰であるか(無限の意識である)を忘れない事ではないだろうか?
「物質世界」は幻想かもしれないが、我々はこの「中」にいる。
これを無視しようとする事に意味があるだろうか?
幻想が人を支配するのは、幻想を現実だと思い、経験している「現実」の実体が何かわからない時のみなのだ。『無限のつながり』が一旦現れ始めれば、この洞察は次の一歩ではない。この知識を使って違いを作り出したり、とんでもない話だが、幻想を幻想と知りながらそれと戯れさえし始める次の一歩ではないのである。
私にとって『無限なるもの』は、インドのあまりに多くの人々が信ずるような、受身の力ではない。『無限なるもの』は、『すべての可能性』であるが故に、すべての可能性を通して表現されうるものなのである。「世界」から引きこもり、瞑想に人生を捧げるのも一つの可能性だが、「唯一」の可能性ではない。
『すべては一つにして全体』という感覚がこの「物質的」経験の領域では無為と同じ意味ならば、それは何もしない事の言い訳や都合のいい弁解になりうる。そして我々がそんな事をすれば、人々を操る者たち思い通りになってしまうのである。
この種のガラクタは沢山見たし、「物質的」世界には受身である事を教える「悟った」グルをあまりに沢山見た。実際には、この「物質的」世界は『無限なるもの』の知恵が、自らが「表現」される事を切に求めている「場所」であるのにだ。
私はもっと素晴らしい理解と洞察で「この世」を変えたい。そこから引きこもるのではなく。私がここの「外」にいる時(ここにいない時)、それができるのだ。
今は快適な「洞窟」、106号室と、この観点から旅立つ準備をしている。私はアルナーチャラにありがとう、インドにありがとう、存在するすべてにありがとう、と言う。
そしてこれらはすべて、「あなた」であるのと同様、「私」でもあるので、 「私」をここに連れてきてくれて、ありがとうと「私」に言う。 しかし、そうなれば、「ここ」以外の場所は存在しない。「ここ」は あらゆる場所であり、あらゆる場所が「ここ」だからだ。
私は頭がおかしくなったのだろうか?いや、まさに正気になったのだ。
【翻訳委員会:◇D】
このニューズレターは著者デーヴィッド・アイクの承認を得て翻訳されたものであり、著作権は著者に帰属します。英語原文に興味がある方は、David Ickeのサイトから購読できます。
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