このニューズレターは著者デーヴィッド・アイクの承認を得て翻訳されたものであり、著作権は著者に帰属します。英語原文に興味がある方は、David Ickeのサイトから購読できます。
デーヴィッド・アイク、ニューズレター 2008年2月24日号
<流れ>無くして…..
…..生命無し
みなさん、こんにちは…
二、三週間ほど前、講演に呼ばれて日本にいた折り、日本人の伝統的な療法家が私に会いに来たのだが、私はどうも調子がすぐれなかった。その人物はとても素晴らしい方で、六年前に日本に来たときにも私をとてもうまく癒してくれた人物である。
彼が私をざっと診るとすぐに、彼が湛えていた微笑みは消え、日本語のおしゃべりの口調により、ここに来る前遺書にサインして封をしてきたことが正しかったと思わせた。状態は思っていたように悪いことではなかったが、良いことではなかったのは確かである。
その日本人療法家と友人たちと、そして天才療法家であるイギリス人マイク・ランバートと話して私が学んだことは、感情が私の身体に及ぼすとても残酷な効果である。
あなたに同じことが起こらないように伝えたい。これは警告である。
このことは、私が瀕死の状態にあるということではないし、明日心臓発作で昏倒するということでもない。ただ、私が十年かそれ以上前にそうなりかけた状態に近い。その理由とは?おそらくは感情、それもプロセスのない感情だろう。
感情によって私が意味するのは、恐怖や罪の意識、フラストレーション、ストレスの低いバイブレーションの状態である。あなたも知っているはずだ。それらはこの苦しい狂おしい「世界」において多くの生命を苦しめている。とてもシンプルな、感情の暗殺者であり、圧倒的な病気の原因である。病気(disease)とは安楽(ease)を否定(dis-)することにほかならず、それは我われが「死」(death)と呼ぶものと同じものである。
江本勝博士の作品を見れば、言葉と感情がエネルギーによって交錯していることが分かるだろう。
これは、愛の言葉と愛情によって出現した水の結晶である。
これは「ありがとう」の言葉によって出現したものである。
そしてこれが、「お前にはうんざりだ!殺してやる!」という言葉によって出現したものである。
感情に影響を及ぼすものは身体に対しても毎日影響を及ぼしており、そして身体は主に水分によって構成されていることを想像してみよう。
私はいままで常に感情的な人間であり、すぐに童心に戻ってしまう。しかし私は感情をそのまま表現する人間では決して無い。それらは体の奥深くに沈静してコントロール可能となっている。
これは時限爆弾みたいなものであり、感情エネルギーは私が無視したからといって消えてなくなるわけでも秘密にしておくわけでもない。身体コンピューターはどうにかして、それを処理しなければならず、そのひとつの方法として身体のあちこちにそのエネルギーを蓄え、直接の影響から自己を保護している。
その主な潜伏場所は背骨のまわりの筋系である。友人の療法家ディヴィ・フラナガンは、私が最近ニューズレターで述べたように「ボディストレス・リリース」と呼ぶ技術によってそれらを対処してくれる。
彼は、ストレスが貯め込まれた脳や身体を治療するのではなく、目覚めさせるために筋肉を刺激してやるのである。そうすると脳や身体が「ああ!忘れてた!」とプロセスを再開させて、ストレスを解き放つのである。私は実際に、それによって肩、首、背骨のまわりの凝りや固さが解きほぐれたことを証言できる。
凝りや固さは、筋肉に蓄えられた、よどんだ感情エネルギーから来ている。身体におよぼす感情の効果についてのキーワードは「よどみ」である。
感情(emotion)とは、この文脈では流れ(motion)の除去(e-)を意味している。たとえば、我われがストレスと感じるときには「きつい」とか「重い」という言葉を用いる。これはまさに、身体に起こっていることなのである。感情エネルギーは<流れ>が次第に遅くなって緊張をつくりだし(窮屈な感じになり)、密集するようになる(体が重苦しくなる)。
我われが「感情」と呼ぶところの、電気あるいはバイブレーションの蓄積は、エネルギーの躍動を止めてしまう。それが起きると、まるで我われのデスクトップコンピューターのうごきが遅くなるように、身体コンピューターシステムのすべては動作不良を起こしてしまう。
「気 chi」という生命エネルギーは、均整のとれた<流れ>によって循環する。なぜならそれは身体コンピューターをかけ巡る情報なのであり、身体に指示を与えフィードバックしているからである。その流れがよどんでしまうことにより、身体通信システムはまるで点滅を繰り返す携帯電話のようになってしまうだろう。
通信が停止あるいは歪むことによって感情は、おそらく毒物を摂取したときのような外部効果を除いて、すべての病気の原因となるだろう。
<流れ>の不足、効果的な通信の不足、によって引き起こされる主な犠牲のひとつが、免疫系の病気である。免疫システムが潜在的な脅威、あるいは潜在的な脅威を持った情報、に対してもっともすばやく力強く反応する必要があるのは当然だろう。
私が現在患っている病気は消化器系の病気である。肝臓、心臓、肺、それらはすべて感情の影響によって接続されており、実際に身体通信システムによってつながっている。
マイク・ランバートが私に言ったように、器官はさまざまな感情をあらわしている。たとえば、感情は怒りの座であり、腎臓は恐怖の座である。言い換えれば器官はお互いにエネルギー的につながっており、影響し合っており、或る器官に不均衡が生じるとそれは他の器官へ波及するのである。
世間一般の医学では、症候を治療するのみで、その原因は治療しない(その原因を理解しないのみではなく)。一般医学は心臓に起きた問題は心臓を治療することを主張する。しかし心臓の不均衡は、腎臓あるいは肝臓、脾臓の不均衡によって起こされたのかもしれないし、不均衡そのものは感情によって引き起こされたのである。
もし療法家あるいは医者が、感情による原因を扱い、どの器官が影響を与えているのかを認識するのでなければ、彼らは永遠に心臓を治療し続けることになり、肝臓や腎臓といったドミノ式に連鎖している、他の場所にある原因による問題を取り除くことはできない。つまり、どこに出発点をたどろうとしても、すべての原因は感情に行き着くことになるのである。
身体の渦、あるいはチャクラの内側には、仙骨(せんこつ)あるいは臍チャクラがあり、感情プロセスの中枢を処理している。感情がとてもパワフルで絶え間なく蓄積されているときは、システムは圧倒されて、チャクラの渦は次第に速度が遅くなり締め出されることになる。
ここでは感情エネルギーが行く場所が無くなっており、結腸が位置する仙骨チャクラ部位によどんでしまうことになる。だからひとは恐怖したり興奮したりすることを、「取り乱す、うろたえる」(訳注:原文getting the shitsは糞便がつくという意味)というのである。もし感情が蓄積され続けたら、身体コンピューターはこのエネルギーを下腹部に蓄え続けることになり、腹部が膨張することになる。
「ビール腹」と広く知られるこの現象は、正しくは「感情腹」である。これはよどみによってエネルギーが膨らんだ症候であり、東洋の療法の言葉ではエネルギーが熱を失ってよどんだ「冷たい」状態である。
実際に、その日本人療法家は私がこうした問題を持っていることを診て、文字通り私にアイロンをかけたのだ!彼らはホテルルームにアイロンを運び込んでもらい、私の身体をもちろん毛布の上からだが腹部から首までアイロンがけしたのだ。私はこうした冗談は決して言わない性質だけれど、私の鉄分不足も補ったのである。もっと言いたいこともあるが、時間がない。
なんと、君をアイロンがけしなければならないと処方箋にある。医者は君を品行方正、まっすぐに伸ばしてやる必要があると言っている。
これは普通の医者やサイエンティスト、懐疑的な人たちが嘲笑する状況のひとつであろう。人間をアイロンがけするなんて! しかし彼らは己の無知をさらけ出したに等しいのである。
アイロンがしたことは、エネルギーが冷えてよどんだ感情エネルギーを暖めて、再び流れ出すようにしてやることである。二回のアイロンがけによって、私の身体機能は驚くべき影響を受けていた。ついでに、私のシャツもきれいにしわが伸びていた。
同様の理由で、私はワイト島にあるマイク・ランバートのシェン医院にて赤外線サウナに定期的に通っている。熱は蓄えられてよどんだ感情エネルギーは再び流れ出すのだ。
よどんだ感情エネルギーのもうひとつの局面は、化学的には酸性であり毒性をもつということである。この理由によって通常の身体は、食物や飲物、環境の要因もあるが、酸性である。バランスのとれた健康な状態にある身体はアルカリ性である。
マイク・ランバートは皮膚を通して毒素を排出するマシンを持っており、私はそれを試してみることにした。長年にわたって蓄積された感情エネルギーの酸性毒素が私の身体から析出されるのだが、その量をみてショックを受けてしまった。
自分の健康から分かったことは、何かをしなければならないという警告が私に発せられているということであった。私は今もこれからも、すべて片付くまでこれらの治療を続けるだろう。まだ沢山やらなければならないことがあるが、どうすることもできない。しかし我われを奴隷化する陰謀のなかで、感情の演ずる役割について理解することは私にとって裨益すること大であった。
もしシステムが我われを身体的に低い感情状態(低バイブレーション)に保つならば、すべての人間の身体はそれに見合った状態へ移行して、機能停止してしまうだろう。これは現実の世界で自らを存分に表現するための意識にはほど遠い状態となる。当然に、我われが地球上で「生命」と呼ぶシステムは、操作する者たちによって、あらゆる恐怖とストレスによる感情エネルギー工場となるようにデザインされている。
思い出せるかぎり子供の時分から、私は首のした六インチあたりに鈍痛を感じている。それが無かった頃のことは思い出せないが、おそらく子宮から出てきた時からだろう。これをひと言で言い表すならば、「絶望」ということになる
ここに一葉の古い白黒写真がある。そこには幼児の私がどこかで小さいアヒルをかかえてよちよち歩いているが、私の顔は当時から、悲しみと絶望を物語っていた。なぜにこの世界に生まれたばかりの子供が始めからこのように絶望しているのだろうか。
このことは、刹那を除いて本当の幸せと喜びを無くしてしまったが、また私の情熱、揺るがぬ信念にも火を点けたことも確かである。私がいまはっきりと分かるのは、私の絶望の源であり、我われを待つ愛と喜びからの断絶である。不思議なことに、あらゆる意味で私の絶望は同時に私の動機であったが、理解さえすればこのことは全然不思議ではないのかもしれない。
私がここに書いたことは、他の人々よりも特に我われにとって、本当のことである。我われの内奥は、覚醒意識のレベルにおいて通常よりも高いのであり、我われは一体誰なのか、何処から来たのか、記憶の底に今なお残存しているのである。
私は確信しているが、私の人生の悲しみと絶望の意味の源はここにあるのであり、この世界が本来どのようなものであったか、そしてかつてどのようなものであったかを知っているものとして世界を見ることによって構成されているのである。
真実でありかつ無限の自我からの断絶を強調したときに感じた切迫感は、望みがまったくないようにみえる時ですら私を駆り立てたのである。しかし私がいつもこの情熱を追及するときに感じているフラストレーションと絶望は、今は感謝しているが、私の身体をコントロールしてきたのであり、今は他の誰かを気づかう時だと感じている。
あなたが何かに一生懸命であるとき、そして研究により何が起こるのかが明らかになったとき、もし我われが一斉に意識の他の次元へのシフトによって覚醒しないならば、そうした人びとへの影響、エネルギーの方向がずれて本来の目的から逸脱する状況が、より拡大されることになるだろう。
ここ六年の間に私が関わった訴訟の、最近の三件のうち二件は、平和の追求や知識の自由といった目的からかなり外れた多くのエネルギーを見たことによるフラストレーションによって、とても深い感情のレベルで私を突き動かしたのである。他人から盗んで自分の懐ろにするような、寄生する人間についての本を書くのに付随するフラストレーションは、例えようもないほど莫大なフラストレーションである。もしあなたが自分が何をしているのかを本当に気づかうならば、諦めることも、自分に対して失望することも、憂鬱になる理由もないのである。
感情的なストレスが引き起こすことーエネルギーのうごきの不足
今なら分かるのだが、あなたは自分の感覚を抑圧することができるかもしれない。しかしそれらの感覚は表層意識から深層意識へ、そして身体へとただ移動させるだけである。いつかはそれに対処しなければならない。私にとってその時が来たのである。
表層意識の上ではたいして気にならない小さなことが、静かにひそかに身体の貯蔵庫に蓄積されていることを理解し始めるのを奇異に思うかもしれない。それはまるで、あなたがイギリス諜報部やロックフェラー家のために働きながら、自由の大義に生命を賭けているようなものだからである。
私の表層意識はそうした馬鹿なことを一笑に付すが、今まで知らなかったことが隠れたストレスおよび絶望として蓄積され、この世界に警鐘を鳴らすためになされることは偽りの義務だと思うようになる。というのは、一般の人びとは悪意のあるナンセンスで他人を知らぬ間に駄目にさせることにエネルギーを、そして自らの時間を浪費しているからである。
それは表面上まったく徴候が現われないまま、感情を知らず知らず吸収するのとまったく同じことである。これこそが、癌(感情の通信障害=細胞分裂不全)や、心臓病(心臓のチャクラのまわりに固く凝り固まった感情エネルギー)が流行した真の理由である。
私は二〇年にわたって、フラストレーションと絶望を限りなく強く感じ続けてきた。特にここ十年、さらにいえば最近の三ヶ年、私の胸は燃えるようであったし、人びとが実際に「こころの病で死に至る」ことが実感として理解できるのである。もう一度強調するが、感情が原因で流れが止まり、よどみが密集して濃くなり緊迫してくると、それは心臓発作その他の症候として明らかになるのである。
私は感情をいとも簡単に表現できるひとや、即座に涙を流すことができるひとを羨んできた。そうした人たちは「感情的」であるといわれるが、しかし我われは広い意味で“すべて”感情的な存在なのである。我われが感情をどれだけ“隠す”のかによって、我われが「感情的」かそうでないのかを決めるのである。もういちど言う。我われは“すべて”において感情的な存在なのである。
「大人は泣かない」というテレビ番組があって、ということは「大人」は心臓疾患か癌でかんたんに墓場行きになるということだ。強くあれ、されば死なん、か。
容易に泣くことができる人たちは感情を処理して流れるようにしているのであり、流れを与えている。涙を堪えている人たちは、身体に新たな毒素を蓄積していることになる。私は悲劇的な出来事や不幸事でも滅多なことでは泣かない。私はいつもその状況がいったい何であり、それに応じてやるべきことを感じているか、さもなければ、見るものすべてにより私の胸の痛みは絶望で小刻みに大騒ぎしている。
私を容易に泣かせるものは、幸福と喜びである。どんなにくだらない映画であっても、誰かを幸せにする映画や、親切な行ないに触れたときなど、私は泣いてしまうのである。私は決して『ノッティングヒルの恋人』や『若草の祈り』といった映画を、同じ部屋に誰かがいてそれを隠そうとしても、涙なしで見ることはできないのだ。
我われは本当に面白い存在だ。私はよく、悲劇や不幸事に際しては怒りや絶望を感じ、幸せや喜びや親切さでもっと速やかに泣くことができたらと考えたものだ。しかし私は生涯続く絶望の痛みと、他人の喜びへの涙とのあいだのつながりを理解し始めている。
絶望は、我われが本当は誰なのか何処から来たのかという記憶によって引き金が引かれるのに対して、涙が流れるのは、たとえそれが操作され当惑した世界の中のことであっても、愛や喜びや賞賛すべき親切の贈り物によるのである。それはまるで、我われが本当は誰なのか何処から来たのかという疑問に対する思い出である。私は涙を堪えることができるが、健康のために絶望とフラストレーションを流さなければならない。それは私にとってはチャレンジであるが、きっとやりとげてみせる。そうだ、感情ストレスの一番良い治療法は...
今日から試してみよう!
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