このニューズレターは著者デーヴィッド・アイクの承認を得て翻訳されたものであり、著作権は著者に帰属します。英語原文に興味がある方は、David Ickeのサイトから購読できます。
デーヴィッド・アイク ニューズレター 2008年12月28日号
笑いますか、泣きますか…
…どっちにしますか。
みなさん、こんにちは。
年末年始の休暇に入り、「生きる」戦いにも一息入れて、楽しいクリスマスと新年をお迎えのことと思います。
しかしながら、人工的に仕組まれた全地球的な規模で金融恐怖が起こり、この恐慌でその筋が狙っている目論見がじわじわと日々の生活の隅々に染み込んでこようとしているこの週末、その数も未曾有に上ろうという人々にとっては笑えるような話題など辺りを見廻してもとんと見当らない。
確かに、これ程多くの人たちにとって、「生きる」ということが明日、来週、来月と生き抜くための「戦い」に過ぎないとしか取りようのないことは、私にはよく分かるし、その理由もよく分かってはいる。しかしながら、生きるということは〈本当のところ〉、こうした生き残りをかけた戦いであると決まりきってしまっているものだろうか。
我々とは何者かということを考えてみると、我々というのは我々の身体ではない、ということは分かる。我々というのは、これこそ「我々」自身であると〈思い込んではいる〉が単なるホログラムに過ぎない自分の身体を使って歴劫(りゃくこう)修行の途についている我々の意識のことである。身体というものは、「我々」が、この狭い周波数帯域であるいわゆる「世界」の中を歴劫修行するときに、乗せてもらっている乗り物に過ぎないということになる。したがって、我々の身体は、我々自身では〈なく〉て、我々が我々自身であると〈思い込んでいる〉存在であるに過ぎない。そうであるというのに、こうした間違い(嘘)を真に受けて、身体というコンピューターを自分と思って生きていると、我々の本当の正体、つまり我々の意識──無限の可能性を秘めた存在──との繋がりが断ち切られてしまうのである。
前述の生き延びるための「戦い」は、身体プログラムの分野の問題であって、マトリックスのプログラムの一部に組み込まれているものであるから、我々をコンクリートの壁ならぬ、周波数の壁の中に閉じ込めてマトリックスのプログラムに従わせようとする企てを我々が打ち破ることが出来さえすれば、生き延びるための「戦い」などは、「我々」の本来の戦いとは関係のないものになって、やって来るのである。
マトリックスのプログラムを切り抜けるポイントは、プログラムの裏をかいて、プログラムが我々にやって欲しくないと思っていることをすること、である。例を挙げれば、逆境にあるというのに笑っていること、あるいは、危機に瀕しようが脅迫を受けようが笑っているということ、この二つを考えて置けばよい。
奴隷制マトリックスの思惑は、我々をつねに恐怖におびえさせて置いて、あの人たちなら助けてくれると我々が信じ込んでいる輩共に、我々の納めた税金をただで献上させようというものである。──『どうか我々の税金[公的資金]を銀行に注入して銀行を救って下さい──そうすれば〈我々も助かります〉』という風に言わせようという魂胆である。それと同時にマトリックスは、将来に不安を懐くように仕向けることで、少なくとも軽度の鬱状態につねに置いておいて、我々が将来を楽観して楽しい夢を思い描くことのないようにしているのである。
このように持って来られると、我々の波動はその濃度(密度)を増すことになり(『身体が何かこちこちになり重たくなって来たよ』と言うことになり)、我々の意識はその〈真の〉実体である〈無限の能力を備えた存在〉との関わりをさらに一層断ち切られてしまうことになる。
我々が、自分の能力など〈限られたものである〉という無力感(虚脱感)に襲われれば襲われる程、自分の本体は意識などではなくて身体であると余計に思い込むようになり、マトリックスの身体プログラムにまんまと引っかかってしまい、また逆に、(恐怖の表れともいえる)不安や落ち込みが生じると、我々のエネルギー場は密度を増し、このことにより我々を無力感の中に閉じ込められてしまって、自らを打つ手を何も持ち合わせていない能力のない存在であると考えるようになるのである。これはもう悪循環である。
我々人類のエネルギー場は、つねに自らの精神状態・感情状態を反映して変動し、その時その時の周波数でもって外界と共鳴しており、逆に、我々の波動の周波数次第でそれに共鳴する外界現象が我々の精神・感情状態に反映されるのである。こうした理由から、麻薬や化学食品添加物のような低周波数波動物質を摂ると過活動症状(運動亢進症)が引き起こされることになるのである。
もちろん、こうした症状を引き起している原因は、一見〈化学〉反応にあるように思えるけれども、化学反応というのは〈波動〉反応を「物質」的な立場から見たものに過ぎない。したがって、我々にとって大切なことは、こうした因果関係の悪循環を断ち切るために、意識を〈無意識の次元、細胞の次元、大自然の次元にまで〉高めて、これを活用するということである。でも、どうやってそれをやればいいの?
そこで、話は振り出しに戻ることになる。
笑うこと!
LAUGH!
これである。
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笑いながら──他の人が笑っているのを見ながらでもよい──我々の波動が「堅く重く」なるように、何でもいいから深刻に考え込んでみよう。しかしながら、笑っているものだから、真面目腐って自分自身も自分の「生」について深刻に考えようとしても、すぐに駄目になってしまう。これは、笑いながら恐怖におびえるということは、一緒には行えない、ということを教えてくれる。
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もちろん、日柄一日、年柄年中ゲラゲラ笑っていろと言っているのではないが、大抵の人たちは笑いが足りていないし、プスッとも笑わない人も中に居る。笑うと波動の密度も薄くなり、エネルギーが活発に流れるようになる。偉大な英国のコメディアン、ケン・ドッドも次のように言っている。
『我々はみんな生まれたときは「笑い筋」を持っているのだから、これを毎日使えば一生涯若々しくきびきびとしていられるわけである。ところが、笑わないものだから、笑い筋が萎(しな)びてしまって無くなってしまうのだ。』
私も、仕事上で大きな問題が起きるし、邪魔も入るし、身辺も切羽詰った状態に追い込まれたりして、日常生活でよく笑うなどということは長いことして来なかった。ところが、これが、2007年夏以来というもの、私の心の中に大きな変化が起き始め、それ以来というもの、その変化の度合も速まっている。
この変化はどんどん進み、今では、1952年にイングランドのレスター市で生まれた「デーヴィッド・アイク」という男は、急速にその姿を消してしまいつつあるという所にまで来ている。これは何か妙な感覚であるけれども、何かすばらしい感覚でもある。本来の自分──私の〈真の〉自分、つまりすべての可能性『一つにして全体』──に戻って来ているようである。
私は今現在、すばらしい飛躍を遂げて、「向こうの世界」に辿りつこうという瀬戸際に来ているのであるが、その境涯というのは、これから二年経てば、私の人生も仕事の方向も根本から根こそぎ変わってしまうようなものである。
そして、私は今、自分の身体コンピューターのプログラムがどう反応するかといった類の次元を突き抜けることによって、今まで以上に生きることの喜びを噛みしめている所である。そう、この地球という所は、抑圧され搾取されることを事とした、ある意味で汚れ切った場所であるから、気に入らない事を一朝一夕には変えることはできないとしても(我々が宇宙の真相を完全に把握した暁にはそれも可能だが)、少なくともその気に入らない事に対する、我々の〈対応の仕方〉を変えることぐらいは出来るはずである。
グラスに半分だけ水が入っているとして、半分も入っていると取るか、半分しか入っていないと取るかの問題であり、事態を深刻に受け止めて恐怖におののき落ち込むか、楽観的に受け止めて面白おかしく楽しく立ち向って行くかである。それはもう、もののとりようであり、哲学である。
今は亡きトミー・クーパーの演技を見ていると、私には、人生を深刻に考え過ぎたりストレスで落ち込んだりしているわけには行かない。トミーは、英国のコメディアンで、1984年に演技中に亡くなった。師は秀れた手品師(マジッシャン)であったが、どじにトチってみせては多くの人々を涙が出る程笑わせてくれた。
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私は、子供の頃からトミーが好きで、それというのも、師のユーモアのセンスと滑稽(わらい)のセンスに波動が合ったからであった。ありのままの世の中の現実を知ろうと師のマジックを見始めると、人生とは如何におかしいものであるか、よく分かる。なにしろ、我々の住んでいる所が、現実世界とは言われていても、みんな集団催眠にかかって眠っている[夢うつつか幻か]の世界なのだから。さあ、トミーの登場です。…どうぞ、ごゆっくりと〈お楽しみ〉下さい。[訳者注:トミー・クーパーのマジックが今では見られないと嘆くことはない。この世はマジックの世界であり、まやかしのごまかしの世界だから、この地球上いたる所が演芸場だから。だから筆者は、現実の世界は別にある、この入場料不要の演芸場の舞台を見て大いに笑おう、というわけか。]
私は、おかしいことを見て笑いたいだけですが、私のもっとも好きなコメディアンの一人は、故ケネス・ウィリアムズです。ウィリアムズは、〈風来坊のシド・ランポー〉という人物を演じては、「古代イングランド」から伝わるパロディーまじりの田園風フォーク・バラードを唄った。その唄ときては、古い英語の文句や自分でこしらえたことばを使って、唄の文句とは裏腹な意味合いを上手に唄ってみせては人々を笑いにさそった。
因みに、師の使った有名な唄い文句に、「路上ランナーに敬礼(Bow Street Runners)」というのがあるが、これなどはお巡りさんのことをさした古い言葉である。
人々の笑い声は何とすばらしいことであろうか。笑い声が発するエネルギーには、どんな恐怖の叫び声も吹き飛んでしまう。「体制側」自体は人々が笑うのを怖れているのであるが、そのわけは、体制が抱いている権力意識も権威意識も笑われると消し飛んでしまうからである。もしも、権力者に対して怒ったり敵視したりしたところで、体制側の思うつぼにはまるのがおちである。
できることなら黙って言うことを聞いて欲しいのだが、それができなきゃ体制側は我々を怒らせるように仕掛けて来るだろうが、それも、こちらが怒ったぐらいのことは、向うにとっては余裕で首尾範囲内のことだからである。しかしながら、制服を着た体制側の誰かが真剣になって「権力」に物を言わせようとしている時に、面と向って笑いころげたことがありますか。私がそれをやったら、向うはどうしたものか分からずただただ呆然としていたのだが、向うの沽券(こけん)が地に堕ちて、ズボンが床にずり落ちたような感じではあった。
「体制派」などは全くのお笑い草であってみれば、我々としては、体制のことにしろ、我々自身のことにしろ、他のことにしろ、まじめに取り上げることはよすことにしなければならない。このことこそが我々を鎖から解き放つことになる、考え方の大変革であるわけだ。そう、我々は、どのように操られているのか、どうして操られているのか、誰に操られているのか、何に操られているのか、を見極める必要がある。とはいうものの、我々の対応の仕方次第によって、依然として操作され続けることになるのか、恐怖・不安・ストレスに繋がれるのはいやだと拒否することになるのか、が決まる。
大勢で抗議に押しかけて、ダークスーツ姿の体制側役人を怒鳴り散らすのではなくて、役人めがけて一斉に笑い立てるだけのこと、そうするだけで、どういうことになるか考えてみて下さい。私が子供時分、ある人が教えてくれたことですが、誰かが恐かったり誰かに脅かされていたりした時には、そいつがトイレで座っている姿を想像してみると良いのです。やってみて下さい。それは効きますよ。
『わたしは偉いんだから、あんたらはわたしを恐がらなければならないことになっている』
今では医学的な実験で確かめられていることだが、笑いには、身体の悪い所も驚く程良くなる効果がある(そのわけは、笑うとエネルギーの流れがよくなり、このことが体内の化学反応[新陳代謝]の状態を良くするからである)。便所にしゃがんでいるイメージの対象になってくれることで我々を笑わせて病気まで治してくれる、偉い医師(せんせい)がいると思えばいいのである。
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笑うことを目的とするグループや団体が次第に増えている。難問山積の南アフリカから帰ってきた途端に、私は、一つの笑いのグループが気に入りった。どんなに厳しい状況にあっても、笑えば〈つねに〉状況が好転したように見えるし、少なくとも前とちっとも変らないということはないでしょう。
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幼い子供の時分から、学校に通い、大人になるまでの人生において、我々は、「笑ってはいけない」と何回教えられて来たことでしょう。いやはや、我々自身にしたところで、成程御説御もっともと何回自分に言い聞かせましたか。でもまあ、冷静になって考えてもみて下さい。我々はこの世界を歴劫修行している<すべての可能性>なのですから我々はこの世界に存在し、また将来存在することになる。我々の存在を広く公表して自分の存在の喜びを[笑いという形で]表現しませんか。
私は、とりわけ、笑ってはいけないことになってるような場面で、笑いころげそうになったことがしょっちゅうある。特に困ったのは学校の教室で、勉強中にひょいとおかしなことが頭に浮かんで笑いが止まらなかったことが頻繁にあった。
同級生にデーヴィッド・ベルという生徒がいて、何かおもしろいことを澄まして言えるという特技の持ち主だが、おかげで私の方はこれでさっぱりやられてしまって、いつも問題児になっていた。ある時、宗教「教育」の授業を受けていたとき、先生が聖書に出てくるヨッパという町の話をしていた時に、デーヴィッド・ベルがそうっと寄って来たかと思うと、私の耳元で『よっぱらいのヨッパは、デブ・ポリ・ヨッパ』と囁いた。
よろしい、もう話の続きは聴かなくてよいと言われて(ヒュー!)私は授業が終るまで廊下に立たされた。──それでもまだ笑っていた。私にとっては馬鹿げたことがおもしろかったわけで、とりわけ、その馬鹿げた話がさも大事そうに深刻ぶって話されているときには特にそうだった。──そして、このことは今でも一日たりとも変った日はない。
テレビでキャスターをしている時にも、私は、ともすればくすくす忍び笑いをしそうになったが、実際に笑い出してしまったことが一度あった。それは、スポーツ放送のキャスターをしていて、タイのある新人選手が画面に映っている時に、私がゲスト解説者にその選手の名前はどう発音するのか聞いた時でした。
『ああ、彼なら二十一番って呼んでるよ。別にヌードルのメニューじゃないけどね』という返事が返ってきた。
中華料理を食べさせる店や持ち帰り専門店では、メニューのそれぞれの品に番号をつけて呼ぶというやり方を知らない人には、それがどうしておかしいのか皆目わからないことだろうし、知っている人の中にも、それがどうした[おかしくもなんともないよ]という人もいるかもしれない。でも、あることで[その新人選手が、ひょっとしてひょろ長かったりして麺類に似ていたのかも]、私持ち合わせの笑い上戸(じょうご)のスイッチが入ってしまい、私が笑い転げている間に、カメラさんはゲスト解説者を撮りつづけていたが、このゲストにも感染すると、もうどこへカメラを向けていいのやら困ってしまって、我々二人が真顔に戻るまで、ビデオを廻してリプレイ場面を見せてお茶を濁したのであった。
ネクタイ締めて堅苦しい奴は、私にとっては苦手なのだが、視聴者はそういう人物でも一緒に笑っているのを見るのが好きである。笑いは伝染するから、一人が笑い出すと、それまで我慢していた他の人にも許可が出たぞとばかりに思い切りどっと吹き出すことになる。
心配しすぎると、あなたはあなたを殺しますよ。
教会が助けてあげましょう。
-Chuch of the cross-
2003年にブラジルで、アユアスカという精神活性剤を服用してみた時には、私は、いつもと違う妙な意識状態になり、そこで過した時間のうちの大半は、激しい笑いが起ってどうしても止まらなかった。この世界で我々が見ている現実は、夢幻(ゆめまぼろし)に過ぎないというはっきりとした声がその間中ずうっと私の耳に聴こえてきたのだが、その声の言っていることがとてもおもしろかったので、笑いに笑い転げたことであった。
あまりにおかしかったものだから、仰向けにひっくり返って両脚を何度も何度も宙に挙げた程大笑いした。人は、身体の方に意識が来ていると、波動エネルギーが濃密になって、そんなには笑えないものだが、意識が「向こうの世界」へ行った時には、それはすごく愉快な気分になって大いに笑える。
しかし、それならば、そんな境地などあるわけないと、どうして思われているのだろうか。「向こうの世界」を経験した人々は、そこではみんなそれぞれが『一つにして全体』であり、怖がったりストレスを受けたりするものが何もない、ということを知っている。我々に、怖がれ、思い煩えと命令するプログラムでは、また、我々にそうした恐怖心や心配やストレスを与えるような状況を作り出しているのだが、[訳者注:こうしたプログラムの攻撃のターゲットは、肉体などの振動数の低い帯域なので、意識をそこにばかり置いていると、恐怖やストレスをもろに受けることになるが]、我々の意識がプログラムの次元を越えて高い波動エネルギーを持っていると、逆に、生きていることだけでとても楽しくなってくるのである。
いい休暇を──ではまた来年──笑って元気でおられることを念じつつ。
混沌(カオス)と試練のさなかでも〈にっこり〉をお忘れなく
結局のところ、あなた方は、存在しているものの全体であり、存在してきたものの全体であり、存在するであろうものの全体である。そうならそんなに捨てたものでもないんじゃないですか。
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The Great Ken Dodd
偉大なケン・ドッド師
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David Icke On Journeys with Rebecca
デーヴィッド・アイク、レベッカと一緒に、旅に出る。
バラク・オバマと、人類の目覚めと、それに、現実世界の真相、その他についての、今週の二時間インタヴュー
【翻訳委員会:A】
このニューズレターは著者デーヴィッド・アイクの承認を得て翻訳されたものであり、著作権は著者に帰属します。英語原文に興味がある方は、David Ickeのサイトから購読できます。
【訳者コメント】
笑う門(かど)には福来たる──
辛い時(怖い時)には思い切り、泣いたらすぐに烏(からす)になろう。気持ちは持ちよう、思いは取りよう。泣けば向うを図に乗らせ、笑えば波動(次元)も高まって、自れの正体(造化(ぞうか)の神々)想い出し、向うの手の内手に取るように。
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