このニューズレターは著者デーヴィッド・アイクの承認を得て翻訳されたものであり、著作権は著者に帰属します。英語原文に興味がある方は、David Ickeのサイトから購読できます。
デーヴィッド・アイク ニューズレター、2009年3月29日号
唯一の「時間」は今だ…
… 文字通り
みなさん、こんにちは
「人生」と呼ばれる幻想をさらに深く探求するにつれ、気がつくと自分がますます笑っている。本当に笑いが止まらない。我々が「現実」だと信じているものは、実は全くそうではないからだ。あるいは我々が「現実」と考えるような意味では全然現実ではないからだ。
ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」でアリスがこう言っていた。
「もし私だけの世界があったら、そこではすべてがばかげているの。何もかもがあたり前の現実じゃないの。だって全部あたり前の現実じゃないものばかりだから。それから逆さまにすると、あたり前の現実は現実じゃなくて、あたり前の現実じゃないものが現実なの。わかる?」
だが、アリスの描く世界はおとぎ話のつくり物ではない。それはまさにここにある。我々がその真っ只中で暮らしている。
人生や社会を変える出来事は無作為に起きるもので、長期的に計画されている結果になるよう操作などされていないという思い込みのように、五感の幻想はすべて、我々が誰で、どこにいるのかについて、と言うより大きな幻想から派生した下位の幻想にすぎない。
一旦最も重大な幻想に陥ると、他のすべての幻想がそれに続く傾向がある。そしてそれらの中心にあるのが「時間」の存在を信じることだ。「時間は存在しない」という主張を初めて聞いた時、私は本能的にそれが正しいと気づいた。しかし「マインド」では全く理解できなかった。
ある時マインドを”超えて”「大いなる意識」の状態になった。そして確かにあるように見える時間が、どうして存在しないのか即座に理解できた。マインドが鍵だ。マインドは「大いなる意識」に仕えるべきものだが、五感の領域では、知覚を支配してしまっている。
「世界」の現状がこのようなものなので、舵を取るべき「大いなる意識」が働ける状態ではない理由が、この一文でわかるだろう。
我々はこの現実で経験をしている「無限の意識」である。そして最も広い意味での「大いなる意識」と我々が経験している「世界」の橋渡し役が「マインド」と呼ばれるものだ。
我々は私やあなたのマインド、彼や彼女のマインドについて語るが、これらはすべて「無限の意識」と五感の領域、あるいは「物質的」幻想、との連絡や橋渡し役となる唯一の「マインド」の表現なのだと私は言いたい。
あなたは、ニューエイジ信奉者か、ウォール街の銀行関係者で、表面的には著しく異なって見えるかもしれない。しかしマインドの中にいて「大いなる意識」の状態でなければ、異なる観点からではあるが、同じひとつのマインド(『知的マインド』と呼ぶことにする)を通して自分の現実を表現することだろう。
「知的マインド」は「人格」をつくり上げる。我々「人格」は固有の名前を持ち、鏡に映る固有の姿があり、固有の存在である「自分」だと思っている。しかしこれは本当の自分ではなく、自分が「経験している」ものなのだ。このようにこの2つを混同するやり方が、世界を今のような有り様にし、我々の「人生」をこのようなものしている。
たくさんの顔、たくさんの人格、しかし本当に意識的にならない限り、ひとつの「知的マインド」にすぎない。
「パワー・オブ・ナウ(The Power of Now)」の著者エックハルト・トールは、「マインドでできた人々」または「マインドでできた話」と彼が呼ぶものが、しばしば「人生の物語」または「私の人生」などと呼ばれていることについて語っている。彼の言う通りだ。実際、我々は本当の自己、すなわち「大いなる意識」との繋がりを失った「マインドでできた世界」に暮らしている。[訳注:The Power of Now:邦訳『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(徳間書店)]
これが、マインドによる思考から出て「大いなる意識」による認識にシフトしないと何も変わらないと私が言い続けている理由だ。我々が「過去」における「変化」とみなしてきたものは、まさに同じマインドの異なる側面同士で人員を交換したにすぎない。
従って、時にはしばらくの間表面的には物事が変わったように見えるが、結局本当は何も変わっていないと悟ることになる。なぜなら「古い」ものの背後に横たわるこれまでと同じ前提が「新しい」ものを知覚する際に同様に支配力をもつからだ。
筋書きどおりの上演方法が、しばしばわずかに変わるだけだ。現実の認識を左右するもの、すなわち「知的マインド」が、(変化の)「前」と「後」の背後で常に働いているからだ。
時事問題の好例がブッシュからオバマへの「変化」だ。言葉(表面的な領域)は変わったように見えるが、その内実のすべては同じか、前より悪い。なぜなら同一の知覚のパターンである「知的マインド」がブッシュとネオコンの人脈を操ったのと同じように、オバマとその側近を支配しているからだ。
本当の変化は「マインド」の支配の外に出て「大いなる意識」に移った時にのみ起きる。「マインド」は極めて低いレベルの知覚である「思考」の領域だ。「大いなる意識」が「認識」の無限の大洋であるなら、思考やマインド、知性が村一番のバカに見えてしまう。
マインド …
… 大いなる意識
2003年にブラジルの熱帯雨林の中で幻覚性植物アヤワスカを飲んだ時、女性のとても奇妙な声が聞こえるという経験をした。それは大声で私に「物質的」現実の実体は幻想であると5時間もしゃべり続けた。最も意味深い主張のひとつが「振動していたら、それは幻想なのよ」というものだった。
私はその後自分の経験から、その言葉の意味を理解した。最も深い意味で純粋の愛である「大いなる意識」は静かであると同時に平穏である。それは無限の潜在力、すべの可能性、自身を意識する”すべての物事を心得たもの”である。これを「虚空(ボイド)」と呼んだ古代の文献もある。
それは「愛」の源だ。「愛」は「虚空」の平穏と静寂の中にある。誰かが「愛の波動(バイブレーション)」を見つけたと主張するのを聞いたことがあるが、これは本当ではありえないと言っておこう。この「愛の波動」は水のボトルに入れて売られているようだ。
「愛」と誤解されているこの舞い上がった愛の状態は振動(バイブレーション)をもちうる。それはそうだ、なぜならばそれは振動する状態の領域に属するからだ。しかし「無限なるもの」の意味の「愛」は平穏と静寂のうちにあり、すべてのものに浸透している。従ってある振動数の肩書のついた名刺を持っていることはない。
このような「愛」を水のボトルに入れて高額で売ることはできない。それは自分自身の存在の状態によって到達しなければならないものだ。
「虚空」は静かだ。なぜならばそれは”すべての物事を心得たもの”であるからだ。よって「考え」たり「すべてを明らかにする」おしゃべりは必要ない。それはマインドがすることで、「大いなる意識」はそうしない。すべてが潜在力として静寂のうちに存在している。音が持ち込まれると、それはすべての可能性であることを止め、ひとつのみの可能性になる。
それは音、形、「物体」、そしてすべてが振動している「知的マインド」が現れた世界だ。我々は振動に基づいた宇宙に「生きて」(知覚して)いる。五感がその振動を電気信号に変換し脳に送り、脳がさらに我々の脳/マインドの中だけに存在する「物質的」世界というホログラフィックな幻想に変換する。
これもひとつの経験で、何も悪くはない。しかし自分自身と現実の知覚があまりに物質の幻想の世界に閉じ込められた状態になったため、幻想を超えた「大いなる意識」という本当の自分を認識することから我々を切り離してしまったのだ。簡潔に言うと、我々はマインドに操作されるようになった。すなわち「知的マインド」に支配されている。
これはすべてに根本的な影響を及ぼす。「大いなる意識」は戦争を始めるだろうか?もちろんしない。マインドが始める。「大いなる意識」は豊かな世界で、何十億の人々が食べ物と物資の欠乏で苦しむようにするだろうか?もちろんしない。マインドがそうする。「大いなる意識」あるいは「一つにして全体」は知覚を隷属し、優越性を巡って戦う宗教をつくり出すだろうか?もちろんつくらない。そうするのはマインドだ.
そして同じような例は尽きることがない。
「知的マインド」は、すべてが他のすべてから分離していると知覚し、そのように描く。それは「あなた(おまえ)」と「私」、「我々」と「彼ら(やつら)」の世界だ。この誤って導かれた現実観の中に紛争と対立の膨大な可能性が存在する。そして我々の現実はまさにそのようになっている。これはすべて「知的マインド」の創作物であり、我々が意識的になり、意識を通して見ることを選択しなければ、我々をその振動の罠に閉じ込める。
「大いなる意識」のひとつの定義として、それが自己認識であり、自己存在の認識というものがある。しかし私はこれに賛成しないし、私がここで用いている「大いなる意識」という言葉はそんな感覚では全くない。「知的マインド」は自己認識するが、私が経験した存在の状態のように意識的ではない。
人類は概して自己を(ある程度)認識しているが意識的ではない。このことで我々が経験している世界について、あらゆることを説明できる。しかしこのことは変化しつつあり、この先も変化し続けるだろう。
我々が「マインド」の幻想に陥る方法のうちで鍵となるもののひとつは、時間の存在を信じることだ。アリスが追いかけた白ウサギが、「あらま!なんてこった!遅れてしまう!」と時間にとり憑かれていたのは当を得ている。
我々は現実認識において完全に時間と一体化している。「何時?」「もうこんな時間?」「時間がない」「今何時?」「時人を待たず」など始終時間のことを気にかけている。1日に何回、今何時だと気に留めるだろうか?
しかしここで奇妙なことがある。時間は実は存在しないのだ。時間はマインドの幻想だ。すべての可能性である「無限の意識」の「今」だけが存在している。
過去と未来という幻想をつくり出すのは、もちろん時間の幻想だ。これらもマインドの創作物だ。過去も未来もない。あるのは「今」だけだ。すべてが「今」起きている。そして「今」以外のところでは何も起きない。「今」以外のものはないからだ。
我々が囚われうる(そしてまさに囚われている)のは過去や未来、すなわち「時間」が存在するという思い込みであり、それらが存在するとみなすことだ。
では質問だ。「過去はどこにあり、未来はどこにあるか?」
普通の答えは、過去は「起きた」ことで、未来はこれから「起きる」こと、というものだ。
よろしい。でも過去と未来はどこにあるのか?過去、現在、未来のどれも経験できる唯一の「時」はいつだろうか?
「今」だ。
過去を考える時、自分はどこにいるだろうか?
「今」だ。
未来について考える時、自分はどこにいるだろうか?
「今」だ。
過去も未来も「マインド」の創作物で、所在位置ではない。それらは「今」に構築されている思い込みで、この思い込みによって過去や未来が存在し、有形であるように見えるのである。過去も未来も実際には存在していない。「知的マインド」のトリックだ。
臨死体験をした人は次のように体外離脱のリアリティを描いている。
「自分の誕生、先祖、子供たち、妻、すべてのことがその始まりから見えた。すべてが一体となって同時に現れる。自分に関するすべてと、自分の回りにいた全員に関するすべてが見えた。彼らがその時考えていたこと、以前起きていたこと、今起きていることがすべて見えた。時間は存在しない。出来事の順序は存在しない。距離や期間、時間、場所の限界などというものはない。私はいたいと思うどこにでも、同時にいることができた。」
体から抜け出すことは、体の現実感覚の変換プロセスから抜けることだ。そしてそれが経験と知覚がこれほど劇的に異質な理由だ。
私は誰もが腕時計を外し、置き時計にカバーをかけるべきだと言うつもりはないが、それが自分にふさわしいならそれもひとつの選択肢だ。だが時間をありのままに見ること、すなわちそれを幻想と理解することで、時間の知覚を変えることができる。
時間にとり憑かれた社会では、確実に誰かに会えるよう、そして相手が立ち去ってから自分が待ち合わせ場所に現れることにならないよう「時間」をチェックすることで、我々は依然として機能している。しかしそうする際「時間」はこの現実の構成物であり「本物」ではないと認識できる。それは自分が乗った飛行機の進行方向に応じて明日か昨日のどちらかに行くのを決めるのが「本物」で海中に引かれた見えない線が「本物」でないのと同じことだ。
この理解は非常に強力だ。なぜなら潜在意識から時間の幻想を追い出し、「(今)ここ」の気づきへと到達するからだ。時間の幻想が意識下-閾値(しきいち)以下-の存在であることやめて、以前は持っていた現実感覚への支配力を持たなくなる。
私が「以前」という言葉をどのように使ったか見て欲しい。言語そのものが時間の観念の上に築かれている。そしてこのことも時間の存在の思い込みを常に支えている。我々に「無時間」を十分に描写する言葉がないのは、現代の言語は「知的マインド」に支配され、時間にとり憑かれた人々が発展させたものだからだ。
時間がない状態の「大いなる意識」と、「時間」の幻想に我々を縛り付ける「知的マインド」に注目することで、いかに「時間」の思い込みが我々を「大いなる意識」から切り離す大きな要素となっているかが理解できる。
おい、「未来」に行かないでくれ、「今」しかないんだ。
過去と未来の幻想から出て意識的に「今」と「ここ」にいることから生まれるたくさんのことがある。そのひとつは今やっていること、現在の状態に集中しはじめることだ。そして焦点を弱めたり、過去や未来とみなすものに焦点を移してしまうことをなくすことだ。
「そんなことをしなければよかった」、「何が起きるのかとても心配だ」、とめどない後悔(過去)と尽きない不安(未来)、これによっていくつの人生と、いくつの「今」が破壊されるだろうか?
ほとんどの人々が生きている「人生」は、「過去」の記憶と「未来」の予測だ。「今」と「ここ」が唯一存在する瞬間であり、彼らの経験を変えることができる瞬間なのだが、ただ彼らの横を過ぎ去っていく。ジョン・レノンは「他の計画をたてるのに忙しい間、あなたに何かが起きるのも、人生だ」と書いた
時間と思考は根本的に繋がっている。実際この二つは基本的に同じものの別の表現だ。時間を創り出し、時間を信じているのは思考、すなわち「知的マインド」であり、「大いなる意識」ではない。では「大いなる意識」とは何か?”静寂”だ。
精神的覚醒が存在するのは言葉と言葉、思考と思考の間の静寂だ。言葉や思考そのものの中にはない。言葉や思考がひらめきを与えるものであっても、それらにできるのは道の途中まで連れて行くことだけだ。それどころか、たいていの言葉や思考のように、それらがひらめきを与えるものではなく、不平不満の繰り言であれば、その言葉や思考によって囚われの身となる可能性もあり、実際そうなっている。
静寂-最も純粋な音楽
私は決して自分の物差しで考えているのではない。そして誰もがあの思考のない状態で本当に「無限なるもの」にアクセスできる。我々は絶え間ないマインドのおしゃべりによってあまりに疲弊しているので、考えることを止めようと誰かが言ったとしても、それは不可能に聞こえる。しかし現在私は思考を止めることがますます簡単だと気付きつつある。
確かに、思考がない状態に集中している時、依然として思考がやってくる。しかしその思考を「自分」だとするかわりに「知的マインド」の思考だと受け入れる。やってきた思考について考えるのを止め、観察を始めるのだ。
これを行う時、簡単な質問をすることで何かに気付くだろう。自分が「自分」の思考を観察しているとすれば、その観察をしているのは誰か?その答えは本当の自分、すなわち「大いなる意識」だ。本当の自分は静寂であり、思考と呼ばれる「知的マインド」のおしゃべりではない。
そして、「マインド」の思考バターンではなく、「大いなる意識」の洞察を描写してこの現実で伝えるために言葉を使うことができる。圧倒的多数の人々にあてはまるように「知的マインド」は「大いなる意識」との繋がりを抑圧しているが、「知的マインド」を乗り越えると、それは抑圧する代わりに本来の橋渡し役として本当の自分に仕え始める。
私が言うように、見かけどおりのものはない。騒音やマインドのおしゃべりにもかかわらず、本当の自分は静寂なのだ。
これらの「物」にかかわらず、根本的な現実とは何も存在しないことだ。「無限なるもの」がすべてであり、”何もない”のが真実なのはこのためだ。”何もない”なしでなにかが存在することはありえない。なぜなら、”何もない”なしで何かが出現することは不可能だからだ。
言い換えると、「物体」の間に空間のようなものがなければ、どうやって「物体」が存在できるだろうか?我々は「物体」を崇拝するが、「物体」は一時的な形にすぎず、”何もない”ところから生まれた。その”何もない”は「すべての可能性」である「愛」の平穏で静寂な「虚空」なのだ。
音は静寂から生まれ、静寂に帰ってゆく。その静寂があるからこそ音は存在できる。静寂とは”何もない”だ。
「何か聞こえるかい?」
「いや、何も」
静寂を大切にしよう。”何もない”を大切にしよう。それが本当の自分なのだ。
まず、マインドから目覚めよう (そして『大いなる意識』へ)
【翻訳委員会◇D】
このニューズレターは著者デーヴィッド・アイクの承認を得て翻訳されたものであり、著作権は著者に帰属します。英語原文に興味がある方は、David Ickeのサイトから購読できます。
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コメント:1
- 久保隆之 09-04-06 (月) 16:03
-
最近、David Icke 氏の著書を積極的に読ませていただいております。上記「時間」についての認識に関しても、大変興味深い内容ですが、私自身も時間に対する既成概念が、いかに真実と異なるかようやく気がつき始めたところです。
David Icke 氏の英語blogも見ておりますが、日本人としてはやはり日本語で書かれている方が、理解しやすく、このblogを日本語に監修していただいている太田龍氏に大変感謝しております。
私はDavid Icke 氏の著書を友人たちに薦めておりますが、彼の賛同者とし啓蒙活動に関わって行けたらと思う次第です。
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