このニューズレターは著者デーヴィッド・アイクの承認を得て翻訳されたものであり、著作権は著者に帰属します。英語原文に興味がある方は、David Ickeのサイトから購読できます。
デーヴィッド・アイク ニューズレター、2009年8月30日号
それは・・・
・・・現実だ。
みなさん、こんにちは。
私たちが深刻に困難な時期を向かえるなか、私は以前にも増して冷静になり、リラックスしている。普通の人ならば、そんな態度は正反対じゃないかと思うだろうが、これでいい。たった五つの単語が、私がどの観点からこれを言っているかを表している…それは、現実だ。(it is what it is)
私は最近、自分がこれを何度も繰り返し言っているのに気がついた、それは単純な言葉だろうが、この一言はものすごい力を運んでくる。それは、ひれ伏しおとなしく黙従することを意味するのではない。「それは現実そのものなのだから、何かを変えるつもりはない。」と私は言っているのではない。私達が物事を観察する今の観点から、それは単に「それそのもの」だ。
私はここでただ言葉遊びをしているのではない。この地球支配という暴挙が淘汰される(それはそうなる様になっている)前のこの先数カ月か数年間は、この言葉はとても重要だ。
拒絶すること以上に人類の覚醒と行動を冷まさせるものなどない。これは以下の様な態度で表現される。「話題を変えてくれ、私はそれについて話したくない、『あんた』は狂ってる、彼らはそんなことを絶対にしない。」又は、「私は自分をごまかすから、その明らかなことに目をむけなくてもいい。」
「それは、現実だ。」はその言葉が示す通り、拒絶することはない。
認知的不協和
認知的不協和は人類にとって重大な牢獄であり、拒絶の極端な例だ。自分たちの信念が目の前の経験や情報と葛藤する時に、人々が感じるストレス状態と感情的不安定を認知的不協和という。この不安を取り除くために、自分の信念を変えるか、その矛盾を起こしている経験や情報をなんとかしてごまかさなければならない。
ほとんどの人が自分に嘘をつくことで後者を選ぶ。こういう人たちは、自分の信念と矛盾する経験や情報が如何に全く矛盾していないかを、よくできたばかげた説明で答える。「我々は平和をもたらすために戦争をしなければいけない。」はその一つの典型だ。
とても多くの人々が陰謀やその背後にある共同勢力は存在しないと激しく否定する中で、どのようにしてオーウェル型国家がかつてなく異常な速度と調整で世界中に導入されているかは、もう一つの例である。
一方の手のひらに信じがたい組織とネットワークを持ち、もう一方の手のひらにそれは組織化又はネットワーク化などされていないという信念を持つ。これがあなたが経験している認知的不協和である。
自分たちの信念構造を困難から守るため、もしくは世界ファシスト独裁政権の様な出来れば起こって欲しくないことが起こっていることを否定するために、全く意味の通らない言い訳で自分を欺く必要がある。
認知的不協和又はジョージ・オーウェルが二重思考(doublethink)と呼ぶこの状態に対する解毒剤とは・・・「それは、現実そのもの」である。
自分たちの観点や好まないことの一時的な作り変えを防ぐために、目前のことを自分で編集したり検閲したりすることなく、向き合っていることを受け入れる覚悟が出来るようになれば、認知的不協和が現われることはない。
これは重大なことだ。起こっていることに対して人々が十分に誠実に心を開かない限り、どうやってそのことに対して手を打てるというのだろう。私が言っているように、「それは、現実だ」はある状況に従うことを意味しない。それは拒絶とそこから生じる黙従によって状況に屈してしまわないための本質的なスタート地点である。
もし私たちが現実であることに目を向けなければ、「現実」は変わることはないし、さらに勢いを増し続ける。何人の人々が間違った診断の可能性に向き合わなかったために、何もすることなく 、初期の段階で治療していれば助かっていたはずの病気によって死んできたんだ?
もしなんであれ個人や集団の生活をより良くするための変化を求めるならば、「それは、現実だ。」の後には「じゃあ、なんとかしようか」が続かなければならない。最初の段階を認めることなく、二番目に移ることはできない。
人々は愛想もつき、情も薄れた関係、それに虐待的な関係ですら維持している。なぜなら彼らはただそれに目を向けたくないからだ。自分たちの彼氏や夫から暴力を受けた女性がびっくりするような言い訳を作り出しているのを、私は耳にしてきた。「私のせいなの。私が彼を怒らせてしまったの。」
違う、彼は残忍な暴漢だ。それを受け入れろ。そこから抜け出すんだ。それが彼そのものだ。それは、現実なんだ。
もし私の皿の上に腐ったパイがのっていたら、ただ自分の気分をよくするために、それはオーブンから出した時は新鮮なんだなどと私は自分に言い聞かせたりしない。もしそんなことをすれば、そのパイは腐り続けて、最後にはその皿も悪臭を放ちだすだろう。それをゴミ箱に突っ込んで、新しいパイを作るんだ。その現実を受け入れれば、私達はそうすることができる。
これにはもう一つの面もある。「それは現実だ」は、唯一存在している瞬間である今にあなたを集中させる。そして、幻想である過去と未来から脱却させてくれる。今を生きることによってのみ、私たちはどんなことにでも影響を与えることができる。時間などはなから存在せず、ただそれがあると思っているだけなのだから、過去と未来も存在しない。
もし私たちが過去と未来を「生きている」なら、実際には存在しない世界の中に「生きている」(知覚している)ことになる。それはただの信念構造である。どうやってその状態やその「場所」から何かを変えることができるというんだ? そんなことはできない。私たちは自分たちを無能にしている。
この言葉は、「それは、現実だった(was)」や「それは、現実となるだろう(will be)」ではなく「それは、現実だ」である。それは「現在形(is)」である今において知覚されるので、この言葉がそのものを変える力を私たちに与えてくれる。なぜならば何かが変えられることができる瞬間にのみ私たちは存在している。
私は、そこにあり続ける過去や未来が存在しないと人々が考えることがなぜ難しいと思うかを理解している。だがそれは明きらかに存在などしない。過去を考える時に私たちがいる場所は? 今だ。未来を考える時に私たちがいる場所は? 今だ。「歴史」と呼んでいるものを通して私たちの祖先が存在した場所は? 今だ。私たちが考える自分たちの子孫が存在している場所は? 今である。
唯一今のみが存在する。その他のあらゆるものは幻想だ。
「それは現実だ」は、過去と未来を消し去る。そして「もしああなっていたらなぁ」や「もしこうなったらどうするんだ?」なども同様に消去される。人々の人生はまるごとこの四つの単語で台無しにされる。もしああなっていたら(if onlys)、もしこうなったらどうする?(what ifs)
ある晩に、私の息子のジェイミーは自分の所属するサッカーチームが負けてしまい機嫌が悪かった。「もし僕たちがあの様にこの様にしてれば、僕のチームは勝てるはずだったんだ。」きっとそうだろう。だが彼らはそうしなかった。そこには彼らは試合に負けたという「現実」しか存在しない。最後のホイッスルが鳴り、その試合は終わり、決着はついたのだ。
過去に閉じ込められてしまった
ああなっていたらとか、こうしていればということに流れていく地点は存在しない・・・もしああなっていれば、もしああなっていれば、もしああなっていれば。私たちが生きているのは今(現実)であり、それを受け入れてやり直すか、変えられないことを引きずりつづけて落ち込むかのどちらかだ。
次の試合に向けて、どうすれば勝てて、良いプレイができるのかに集中すれば、過去はあなたを未来に投げ入れる。そうしたとしても、それに対して何かができるようになる前のしばらくの間は、心配や不安はなくならない。今回は勝てるだろうか? それとも、また負けるのだろうか? おいおい、連敗するかもしれないじゃないか、なんてこった。
そこにはもう一つの道がある、今を生きる道だ。負けたということ自体を受け入れ、経験という教訓から学ぶんだ。それから「もしああなっていれば」と後悔することなく、自分の人生をやり直そう。過去と未来という名の、気分をぶち壊すやつらなんてほっといて今を楽しもう。
結局この二択は何なのだろうか? 今を楽しまないなんて、私にはあまり面白そうに聞こえない。以下に紹介する有名な「祈りの言葉」が、私がここで言っていることを要約しているように思う。
神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
(訳注:ニーバの祈り(Serenity Prayer)は
神学者ラインホルド・ニーバーによって書かれ、
当初は無題だった。訳は大木英夫氏のものを転載)
私なら「神」を意識に置き換えるところだが、言いたいことは同じだ。変えられないことや今すぐには変えられないことを受け入れなければ、今の楽しみを台無しにすることになる。「それは、それそのものなのだから、なんとかしよう」というこの言葉はたくさんの受け取り方がある。例えば、「それは、それそのものなのだから、それに対して何かしよう」や「それは、それそのものなのだから、今この瞬間はそれに対して何もできないけど、それそのものを受け入れないといけない」などがそうである。「識別する知恵」を使うことによって、両方の例が「現在」を扱っている。
未来なんて分からない
過去なんて変えれない
今この瞬間だけが手の中にある
それを自分の最後の瞬間として握りしめなければならない
もちろん分かっていると思うが、人生はいつも私たちに完璧な手を差し伸べてはくれない(まあ、私たちの観点から見て完璧ということだが)。私たちには好き嫌いがある。そして、もしそれらを双子の詐欺師として扱わなければ、感情的に揺さぶられてその内ボロボロになってしまう。この先数カ月ないし数年間以上にそうなることはない。なぜなら例の気狂いたちが最後の切り札を切ってきているからだ。しかし、最終的には私たちが勝つように運命付けられている。
起こるかもしれないことを心配したり、どうしてそれが起こってしまったかにイライラしても、現在起こっていることをどうにかするのには役に立たない。それは、それそのものだ。 如何にしてこの困難に突入したかということをもはや変えることはできない。また、「もしこうなったら?」という未来の幻想を見続けても、この困難の導く先に影響を与えることもできない。そうだったことやそうなるだろうことではなく、私たちは今とそのものであることだけを変えることができる。今を変えさえすれば、「そうなるだろう」はおのずと変わることができる。
そこからもう一つの疑問が生じる。なぜこれが私たちに起こっているのか? なぜこの全てが起こっている現実に私たちは存在しているのか? なぜあなたには起こっていることが、私には起こらず、私に起こっていることがあなたに起こらないのか? なぜそれぞれの人生は異なるのだろうか?
この問いに答えることができれば、あらゆることが変わる。
二十年前、私が意識の旅を開始した最初の数週間に、ある霊能者は「彼ら」が私にメッセージがあると、私に伝えた。その内容はこうだ。
「真実の愛は常に受け手が望む形をしていませんが、常にその人にとって最善の形をしています。だからその形に関係なく、全てを受け入れなさい。あなたの好まないことをよく考え、なぜそれが必要なのかを理解できるかどうかに目を向けなさい。そうすれば受け入れることはもっと簡単になるでしょう。」
受け入れることが鍵である。それは、それそのものだ。もう一度強調するが、これは、それを変えることができる時、又はできない時をただ知るだけで、何もせずにある状況に従うことを意味するのではない。
なんで私なの?
だが、例の疑問に戻ってみよう。なぜ私たちの人生は異なるのか? 今あなたに起こっていることの映し鏡である人生で繰り返し起こる経験のパターンが見えているか? 人生はあなた自身について何を伝えているのか?
「あなたの好まないことをよく考え、なぜそれが必要なのかを理解できるかどうかに目を向けなさい。」
人生が伝えているメッセージに気づくことによって、誰でも人生を変えることができるということを長く時に辛い経験から、私は学んできた。要するに、あなたの一方のレベルは他方のレベルと繋がっているということだ。
自分の経験の意味を認めだすと、その経験は消える。その経験は罰に関係するのではなく、意識の拡大に関係するものだ。一度その学習ができれば、経験はもはや必要ないので空気の中に溶けてなくなる。
その「なぜ?」の意味を解き明かせない人たちは、それが分かるまで幾度となく同じ経験をすることになる。分かったかい? いいや。そうか、じゃあまた同じだな、ビル。
人類は全体でこの集団的な「なぜ?」を解き明かさなければならない、かなり困難な局面を迎えようとしている。なぜ私たちはここに存在している時に、この強制的独裁を経験しているのだろう? その答えは万人に共通するものではないだろうが、大多数にとっては同じである。
人々がその答えを見つけた時に、その経験は終わるだろう。なぜならそれはもはや必要なくなるからだ。そのためのスタート地点は、拒絶を捨て去ることだ。それは、それそのものであり、私たちが向き合あえば、私たちはそれを置き換えることができる。
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もし…
もしあなたの周りの全ての人が冷静さを失い、それをあなたのせいにしている時
あなたが落ち着いていられるなら
もしあなたの周りの全ての人があなたを疑う時に自分を信じられるなら
だけどその疑いを許容できるなら
もしあなたが待つことができて、それに疲れないなら
もしくは、あなたに関する嘘をつかれてもそれに取り合わないなら
もしくは、恨みを持たれてもその恨みに屈することがなければ
そして自分を良く見せ過ぎず、懸命さをひけらかさないなら
もしあなたが夢を見ることができて、その夢に支配されないなら
もしあなたが考えることができて、考えを目的にしないなら
もしあなたが勝利と災難に会い
その二人の詐欺師を分け隔てなく扱うなら
もしあなたが話した真実を悪者たちが
カモを騙す餌として歪めているのを聞いて耐えられるなら
もしくは、あなたの人生にとって大事なことを
台無しにされるのを目撃して耐えられるなら
そして身をかがめてぼろぼろになったそれらを拾い組み直せるなら
もしあなたが自分の勝利を積み上げても
もう一回それを危険にさらすことができるなら
そしてそれを失いもう一度スタート地点からやり直し
失ったことに一言も弱音を吐かないなら
もし自分の心と神経と体力をそれらが無くなった
後も次の機会へと温存し
自分の中に「待つんだ!」と話しかける意思以外何も
残らなくなった時でも待ち続けることができるなら
もしあなたが群集と会話をし善意を保てるなら
もしくは、王たちと共に歩きなお平凡さを失わないなら
もし敵も愛すべき仲間もどちらもあなたを傷つけることができないなら
もし全ての男たちがあなたを重視するが、誰もそうし過ぎなければ
もしあなたが容易ならぬ一分を
六十秒かかる距離を走ることで埋められるなら
世界とこの世の全てはあなたの手の中にある
そしてもう一言。お前は男だ、息子よ!
ラドヤード・キップリング(Rudyard Kipling)
【翻訳チーム◆D】
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